読んでいない本について堂々と語る方法
読んでいない本について堂々と語る方法
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いささか興奮気味です。

好みの本を見つけたからです。そして、その本が期待をはるかに超えていたからです。

帯にはこうあります。
 ↓
「欧米で話題沸騰 未読書コメント術」
本は読んでいなくてもコメントできる。いや、むしろ読んでいないほうがいいくらいだ・・・
大胆不敵なテーゼをひっさげて、フランス論壇の鬼才が放つ世界的ベストセラー。これ一冊あれば、とっさのコメントも、レポートや小論文、「読書感想文」も、もう怖くない!


訳者あとがきを見ると、2008年夏現在ですでに15カ国語に訳され、さらに約15カ国語で翻訳が進行中だそうで。

未読書コメント術は、世界中に広まっているようです!

私がこの本を手にとった理由は、「やったー!これで本を読まずに紹介文を書ける!」ということではありません。実際のところ、たいして読まなくても紹介文は書けるし、コメントすることも可能ですし。

でも、ある本についてコメントしながら「実は読んでません」と言うのは難しい。「だったらコメントするなよ」と言われるに決まっているから。

コメントするには、その本をしっかり読んでいるという前提があります。それが常識です。

ピエール・バイヤールというフランス人は、なぜこんな大胆不敵なことを言うのか?俄然興味が沸いてきたのです。

パラパラとめくってみたら、すぐに目に入るものがあります。

これがスゴイ。
本についてコメントする際、ページの端に略号をつけています。この冗談がキツくて、まず笑いました。

略号一覧
<未> ぜんぜん読んだことのない本
<流> ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本
<聞> 人から聞いたことがある本
<忘> 読んだことはあるが忘れてしまった本
◎ とても良いと思った
○  良いと思った
×  ダメだと思った
×× ぜんぜんダメだと思った


本書の中にはさまざまな本が登場するのですが、それについてすべて略号をつけているのです。略号の中には、ちゃんと読んだことを示す記号がないのですよ!

しかも、略号をつけている本の中には、読むことが不可能な本も出てきます。

小説の中に登場する本、すなわち現実には存在しない本にも略号をつけているからです。

たとえば、『フェルディーノ・セリーヌ』(<流>○)の中に出てくる主人公はベストセラー小説の共著者二人です。そのベストセラー小説は『褐色のジャヴァ』という本で、これにも略号をつけているのです。<未>×と。
これが、平然と並べられているのを見て、プっと噴出しちゃうわけです。

本書の構成は以下の3つからなります。

1.未読の諸段階
2.どんな状況でコメントするのか
3.心がまえ

未読と言ってもいろいろな状態があり、それぞれの考察をしています。略号の種類にあるとおり、読んだが忘れてしまった本も「未読本」に含められています。

次に、読んでいない本について語らされる場面にもいろいろあります。作家を前にして作品について言わなければならなかったり。ある本をこよなく愛する人を口説くときだったり。

最後に、未読本コメント術です。どんな心がまえで、堂々と読んでいない本について語ればよいのか。その心がまえは、「気後れしない」「自分の考えを押しつける」「本をでっち上げる」「自分自身について語る」。

著者のピエール・バイヤールはパラドックスの名手であるそうで、本書でも美しきパラドックスが展開されていきます。

そもそも「読んだ」「読んでいない」はあいまいなものである。同じ本を読んだ二人は、それぞれ受け止め方が違う。記憶のしかたも違う。もはや同じ本ではなくなる。

本に入り込みすぎると自分を失う。読んでいない本について語ることは、まぎれもない創作活動だ、と。

私は本をほとんど読まなくなったおかげで、本についてゆっくりと、より上手にコメントできるようになった。


しかも、この大胆不敵なテーゼを支えるものがまた美しい。本に対する交錯した想いを表現している作家、作品を丁寧に取り上げながら(もちろん、すべてに未読略号がついている)、論じているのです。その見事さに魅了されてしまう。

3章の3「本をでっち上げる」には夏目漱石の『我輩は猫である』(<流>◎)をテキストに選んでいます。

先生のもとを訪れた美学者が、でたらめな話をします。

「或る文学者のいる席でハリソンの歴史小説『セオファーノ』の話しが出たから僕はあれは歴史小説の中で白眉である。ことに女主人公が死ぬところは鬼気人を襲うようだと評したら、僕の向うに坐っている知らんといった事のない先生が、そうそうあすこは実に名文だといった。それで僕はこの男もやはり僕同様この小説を読んでおらないという事を知った」

ピエール・バイヤールはこれについて考察します。
二人とも読んでいないのだから、相手が読んでいないこともわからないはずだ、と。

そもそも「でたらめ」と言えるのか?勘違いかもしれないじゃないか?勝手に解釈したものが記憶として残ることはよくあるのでは?夢想や会話は、現実の書物より「幻影としての書物」の延長上に花開くのではないか?

もはや現実の書物に意味がなくなり、個々が持つ「幻影」に意味が出てきます。


そして・・・

これまで本書の中で紹介してきた本のストーリーも、現実の書物とは違う部分があることが告白されます。現実の書物とは違うハッピーエンドを用意したり、現実の推理小説とはまた別の推理を書いていたり。「こういう本だった」としれっと書いていたのです。

「エっ!?ウソなの!?」とビックリ。舌を巻きました。

著者本人が、本書の中でまさに「本をでっち上げる」を実践していたというわけです。




まだまだ紹介したい部分があるけれど・・・
ぜひ読んでみてください!最高です。





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