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今日は小花柄のジャージーワンピに、フリルつきニットカーディガン。
フワフワ、軽やかな感じで、原稿執筆の仕事をしました。

レギンス1枚、靴下3枚履いています。


『動物化するポストモダン』(東浩紀 講談社現代新書)を読み始めました。

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)
動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書) [新書]



日本文化の現状についてまじめに考えようとするなら、オタク系文化の検討は避けて通ることができない、ということで、オタク系文化を通じて日本を論じています。

昨日紹介した『中身化する社会』(菅付雅信 星海社新書)では、こんなふうに紹介されていました。

中身化する社会 (星海社新書)
中身化する社会 (星海社新書) [新書]


ソーシャルメディアの急激な進歩により、逆説的に人間が「動物化」するという概念が登場しているが、現代社会において、人間が「動物化」することを予見的に描いたベストセラーが、10年以上も前に出版されている。


そうか、10年以上も前なんですね。奥付を見ると2001年11月20日発行とありました。


この本の中で東浩紀が言う「動物化」とは、もともとフランスの哲学者アレクサンドル・コジェーヴの言葉を踏まえたものです。

コジェーヴは『ヘーゲル読解入門』で、人間と動物の差異を「欲望と欲求の差異」によって説明しています。
「欲求」とは特定の対象を持ち、それとの関係で満たされる単純な渇望。お腹がすいたら食べて満たされる、というようなことですね。
対して「欲望」は、欠乏が満たされても消えることがありません。たとえば、男性が女性を求めるのは、満たされることがない。「他者の欲望を欲望する」という複雑な構造を抱えているから、単純でないのです。
人間が動物と異なるのは、まさにこういった間主体的な欲望があるからです。

それを踏まえて、ここで言う「動物化」は、各人がそれぞれ欠乏-満足の回路を閉じてしまう状態の到来のことです。
マニュアル化され、メディア化され、流通管理が行き届いた現代の消費社会では、従来なら社会的なコミュニケーションなしには手に入らなかったものが簡単に手に入るようになっています。

東浩紀は95年以降の時代を「動物化の時代」と呼んでいます。

動物化を免れ、人間が人間的であるには、今の環境を否定しなければなりません。
与えられたものを受け取り、欲求を充足させているだけでは、動物化してしまう。

「こういうのが欲しいんでしょ?」と言われても、本当にそうなんだろうか、と考えてみたいと思います。



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