フェイスブックに投稿したメモのまとめです。

前回のまとめはこちら。

『聖書男』を読みながら1〜3(混紡の服、生理中の女性、創造論者)


『聖書男』を読みながら 4 無神論者

日本人の多くは、宗教を尋ねられたとき、特定の宗教に属していないということで、無宗教って答えるようですよね。でも、このへん言葉の理解も曖昧で、本当はなんと答えたらよいのかわかりません。不可知論者と言うのがいいって言っている人もいます。

ただ、無神論者というのは意味がちょっと違います。

無神論というのは、神の存在を積極的に否定することだから。

さて、聖書の教え実践中のジェイコブズは、ニューヨーク無神論者の会に行ってみました。

無神論者が集まって議論をしているのですが…

会の代表のケンはカリスマ性があり、話も上手。声もいい。しかし、メンバーの誰も集中して聞いていません。あちこちで勝手にしゃべり始めてしまいます。残念ながら誰もケンを神の代理人と思わないので。

「みんな個人主義なんだ」


ジェイコブズは、宗教者は当面、無神論者の集まりを危惧する必要はなさそうだと言います。

信仰がないことに熱くなるのは難しいからです。

ジェイコブズは、ケンが無神論に目覚めたきっかけを聞くのですが、

これがまた皮肉たっぷりの文章で笑えます。

ケンは子どもの頃に、サンタクロースなんていないのではと思うんです。


「プレゼントを全部配るなんて無理だからね。フェデックスはまだなかったから」
つまり、ケンはロジスティクスの不備を理由にサンタクロースの嘘を見破った。さすがIBMに勤めただけのことはある。



そんな子どもイヤだな(笑)

ともあれ、無神論者は組織化してもあまり勢力にならないようです。




『聖書男』を読みながら 5 一夫多妻制

日本でも一夫多妻制アリだと思う?というアンケートで、47.9%が「アリ」と答えたという驚きの結果が出ているようですが、


ヘブライ語聖書では、一夫多妻制を認めています。ヤコブには妻が2人、ダビデ王は8人、ソロモン王は700人

ただ、これはユダヤの制度であって、キリスト教の歴史の中では一部の例外を除きあまり見られません。

聖書の教え実践中のユダヤ人ジェイコブズは、その例外となる「クリスチャン・ポリガミー・ムーブメント(キリスト教一夫多妻制推進運動)」の代表ドンに電話で質問をしました。

Q.もう一人妻を持ちたいとき、今の妻にどうやって納得してもらうのか?

A .結婚式をしちゃってから報告したほうがいいよ。

Q. 第二の妻となる女性には、第一の妻のことを話す必要がある?

A. 話せ。そのほうがいい刺激になるかも。妻は一人だけじゃないと平然と言ってのける男に惹かれる女もいる。

なんかちょっとズルイような気がする〜と、いまいち納得のいかないジェイコブズは、「ほかに納得させる方法はない?」と聞きます。


「まずは祈る。困ったときに神に祈るように。つぎに、聖書をよく読むよう妻にいう」
一夫多妻制が聖書で禁じられていないという証拠を妻に示す。事実、旧約聖書の英雄の多くに複数の妻がいた。
「旧約聖書に出てくる偉大な男の偉大さをわからせるんだ。ダビデは詩編を書いた。ソロモンは箴言を書いた。二人とも偉大な人物だ。その点を強調する。」




ああ、アンタも偉大だからしょうがないわね、

・・・ってなるかい!!


ジェイコブズは、具体的に誰か候補がいるのか聞かれて、ベビーシッターの若い女性のことは好きだな〜と答えます。
するとドンは、もしその女性を第二の妻としたら、今の奥さんには「これでベビーシッター代を払わなくてすむというんだ。倹約になると」。


この推進運動もあまり進まなそうですねぇ。


『聖書男』を読みながら 6 カフェテリア宗教

読み終わっちゃいました。
現代のニューヨークに住む不可知論者のジェイコブズが聖書の教えを実践するというチャレンジの記録。
1年間のうち、最初は旧約聖書からはじまり、最後の4ヶ月は新約聖書の実践でした。

新約聖書の実践がはじまった日、ジェイコブズはイエスを主として受け入れることができず、苦しんでいました。意外なような、わかるような。

ジェイコブズはユダヤ人ですから。
旧約聖書のほうが受け入れられるのですね。そして、これまで8カ月ヘブライ語聖書の神とつきあって(?)うまくいきはじめているから、ここでイエスに鞍替えするのは・・・みたいな気持ちになったのです。

この分厚い本も、最初は爆笑の連続だったのが、後半からは若干シリアスに。ジェイコブズの心境の変化がわかります。この間に隣人が亡くなったり、双子が産まれたりといった事件も関係しているのでしょう。

さて、1年間聖書の教えを実践した男の結論は。

だれもがカフェテリア宗教をやっているのがよくわかった。


カフェテリア宗教とは、聖書を自分の価値観に合うようにしているということです。ファンダメンタリスト(原理主義)のキリスト教徒が穏健派を揶揄して「カフェテリア・キリスト教」と呼ぶのにならっています。

カフェテリアで食べたいものだけ選ぶように、聖書の中から守りたいものだけ選んでるじゃん!っていうことですね。
でも、原理主義の人だって、やはり選んでいる。ぜーんぶ守ることなんてできないんだから。

ジェイコブズは、選ぶのはかまわないと言います。

正しい皿を選べばいい。
宗教指導者だってなんでも知っているわけじゃない。でも、よい指導者はどれが新鮮かを教えてくれるだろう。

そして、
相変わらず不可知論者であることには変わりないが、「畏敬の念をもつ不可知論者」になったと言います。


神がいようがいまいが、聖なるものは存在するといまは信じている。生命は聖なるものだ。安息日は聖なる日だし、祈りは聖なる儀式といえる。なにか超越的なものがある。日常を超えたなにかが。聖なるものは人間がつくりだしたものかもしれないが、だからといってその力や重要性が損なわれるわけじゃない。



最終的なこの結論は、日本人にとっては非常になじみやすいですね。

ただし、結論が重要なのではなく、
ここに至るまでの七転八倒が重要なんです。

いやー勉強になりました。面白かった!



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