<世界史>の哲学 古代篇
大澤 真幸
講談社
2011-09-21



フェイスブックのほうで、本を読みながら、その都度思ったことや覚えておきたいことをメモしています。

今回は、『<世界史>の哲学』を読みながらのメモまとめ。

内容はけっこう難しいんですが、感想(っていうかメモ)は気楽に書いていますので気楽に読んでみてください〜

【『<世界史>の哲学 古代篇』を読みながら 1 守銭奴と宗教者は似ているのか】


『<世界史>の哲学 古代篇』(大澤真幸 講談社)を読みながら、面白いと思ったことなどのメモ。

本シリーズは、社会学者の大澤真幸が歴史を一種のミステリーとして読み解こうとしている本で、現在のところは「古代篇」と「中世篇」が出ています。

古代篇ではまず、「普遍性をめぐる問い」として、資本主義とキリスト教について論じています。

普遍性のあるものって何なのか?
という話を具体的に絞り込むため、大澤氏は資本主義に焦点を当てました。

資本主義は今のところ、どんな文化・社会でも利用できるもので、実際、利用されているからです。
しかも、その起源を見ると、本来は特殊な文化的背景があります。キリスト教文化です。

それなのに、どうしてこんなに普遍化したんでしょうね?っていう問いですね。


で、その前に、資本主義を論じる意味について重要だなと思うことが書かれていたので引用します。



現在、人類が直面している社会問題、緊急に解決が要求される社会問題は、三点に集約される。

〔餌押宗教など文化的な差異に源泉をもつ戦争・紛争。
◆聞餾歸あるいは国内的な)経済格差。
4超破壊。

これらの問題を解決しうるかは、最終的には、人類が、資本主義を超える―――あるいは資本主義に代わる―――普遍性を有する社会を構想しうるか、という点にかかっている。




さて、資本主義とキリスト教には共通点が見られます。

簡単に言うと、
信仰するほど欠如する、という点です。

守銭奴は、お金をためることに固執するあまり、禁欲的であるといいます。

信仰の立場からすると、最悪の「偶像崇拝」に見えるんですが、決して消費し、享受しないことからすると、そのカネも「超越的で崇高な対象へと変化している」わけです。

これは、キリスト教の禁欲的な信仰(信じれば信じるほど、真に救済されるか不安になる)と似ています。


キリスト教がちょっと特殊なのは、イエスという人間が神になっているところです。

人間が神になっていることを受け入れると、恩寵の配分には恣意的な偶有性が入り込まざるをえません。

人間だもの。

どうしても、限定されちゃう部分がある。


でも、信仰するには、恩寵の配分には普遍的な法則があると見なす必要がある。

信じようが信じまいが、いいことしようが悪いことしようが、どうなるかわかりませんっていうんじゃ、信仰する意味がなくなっちゃう。


だから、キリスト教においては普遍性と特異性が同時に、同等なものとして確保されているというんですね。


ふむふむ。

普遍性と特異性が同時にあるということが、ポイントなわけだ。

今日はここまで☆


【『〈世界史〉の哲学 古代篇』を読みながら 2 美と崇高】

「世界史は、謎の殺人事件から始まる一種のミステリーである」

帯にはこうあります。

謎の殺人事件とは、イエスの磔刑のことですね。

大澤氏は、イエスが殺害されて、復活したということに大きな意味があると言います。

これによって、キリストの身体の物質的=具体的性格を否定し、理念的=抽象的にした。キリストの身体が超越的になり、普遍性と世界に対する偏在性ができたのです。

具体的な身体は、その身体がある場所に縛られますからね。
そこを超越しなきゃなりません。

だから、殺害される必要があったんです。
そして、復活すれば、身体は抽象的になります。

さて、キリスト教の素地であるユダヤ教の説明をする中で、カントの美と崇高の理論が出て来て面白かったのでメモしておきます。

簡単にいうと、美は人を落ち着かせ、癒すが、崇高は人を興奮させ、不安にするというものです。

不快であることにこそ快楽を覚えるようなものが崇高であって、美の後にくるものだといいます。

なぜ不快かというと、どのような物質的・経験的対象も、超感覚的・超越的なイデアを適切に表現することはできないからです。

不可能なんです。

つまり、物質的・経験的に表現が追いつかなくて失敗しているということにこそ、快楽を感じるのが崇高だということです。

たとえば神の姿を最高に美しく描いたとしても、それは適切に表現できているはずがない。

ユダヤ教の律法の中で最も重要なのは偶像崇拝の禁止だそうですが、まさにそういうことなんですね。超越的であるはずのものを物質的に表現して、それを神だとすることは冒涜になっちゃう、と。

美と崇高…

調和のとれたものには癒されますが、美しいだけでなくバランスの崩れたものにやけに惹かれることありますよね。不安になりながら、ドキドキしながら、ずっと見ていたい、というような。

そこになにか超越的なものを感じ取っているということでしょうか。

面白い議論です。







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