<世界史>の哲学 古代篇
大澤 真幸
講談社
2011-09-21



大澤真幸氏の『<世界史>の哲学 古代篇』、読み終わりました。

フェイスブックのほうで、その都度思ったことや覚えておきたいことをメモしたものまとめです。

*これまでのまとめはこちらです。

『〈世界史〉の哲学 古代篇』を読みながら1・2(守銭奴、美と崇高)
『〈世界史〉の哲学 古代篇』を読みながら3・4(西洋とは、カエサルとイエス)

『<世界史>の哲学 古代篇』を読みながら 5 無に関する考察

「無」の捉え方は、西洋と東洋で異なるようです。

大澤真幸氏は本書の中で、
「存在としての無」
「無としての無」

と表現しています。

私たちはどちらかというと、「無としての無」に馴染みがあるので、こっちはわりとすんなり受け止められますが、「存在としての無」を本当に理解するのは難しい。

本書では「西洋」というものについて解き明かそうとしていますので、「存在としての無」が生まれた背景を丁寧に説明しています。

たとえば、古代の原子論。

さまざまな事物は原子の離合集散の結果、できているという考えです。

アリストテレスは『形而上学』の中でこう言っています。

「有らぬものは有るものにおとらず有るとも言われるが、それは空虚の有るは物体の有るにおとらず有るという意味である」。

「空虚」も物体と同じように有る、「無い」というものが有る、というわけです。

これ以降、「存在としての無」を突き詰めたのがプラトンです。

ちょっと難しいのですが、ごく簡単にまとめてしまうと…

虚偽・誤謬とは、「有るもの」とは異なっているということである。「有るもの」が「有るもの」たりえているのは、それと違った虚偽・誤謬の中で語られるものがあるからである。(差異によって、有ることができる。)

つまり、「存在」は「非存在」のおかげで、「存在」できているということです。

どんな存在にも非存在がついてまわっているのです。

こうして、西洋哲学では「無としての無」を思考の対象から排除してしまいました。「無」を存在化する限りにおいて、思考することになりました。

その結果、キリスト教にとっては好都合(?)になります。

イエス・キリストについて思考することが著しく困難になるのです。


イエス・キリストとは、<無としての無>でなくて何であろうか。<存在としての無>の概念をもってキリストについて語るということは、キリストが死んでも、神は生きているということである。それは、キリストの受肉の真の衝撃を回避することになるだろう。


無としての無が目の前に存在として現れてしまったら、エライことですからね。


『<世界史>の哲学 古代篇』を読みながら 6 真理を追求すると犬になる

社会学者大澤真幸氏の『<世界史>の哲学 古代篇』(講談社)を読みながらの感想、備忘録です。

フランスの哲学者ミシェル・フーコーが好んで研究した対象に、古代哲学の学派ストア派とキュニコス派があります。

ゼノンに始まるストア派は有名ですよね。

ストア派の特徴を一言で言うなら、「自然本性との調和」です。

ストア派の理想の心の状態は「無感動」。
激情にも欲望にも翻弄されることがなく、泰然自若としていることです。自然本性に調和するように、己を律するなら、このような心境が得られるはず、というのがストア派の考え方です。

では、キュニコス派は?

私はこれまで聞いたことがなかったのですが、なかなかにスキャンダラスな生きざまのようで。

ものすごく貧乏で、物乞いをし、家を持たず、食事もセックスも人前で堂々とする、というような。

見た目的には、ストア派の正反対なんですね。

ところが実は、どちらも「生に対する真理の適用」によって辿りついているというのが大澤氏の指摘です。

人間は本質的に「善く生きるために」存在すると考え、「真理」を適用しようとした結果、犬のような生き方になってしまったのがキュニコス派なのです・・・

「真理」とは、フーコーによれば
・隠されていないこと
・純粋性(混じり気がないこと)
・公正性
・不朽性・不変性

という4つの要素があります。

犬は、野外で隠れずに生活します。どこにも縛られず、好きなように生きることができます(純粋性)。吠えることで、見知らぬ人と親しい人を判別します(公正性)。番犬になりえるように、恒常的な安全を保障することもできます(不朽性・不変性)。

人として善く生きることを追求した結果、犬のようになるというのは逆説的ですねぇ。

この見た目からは、哲学者たちだとは思えないですよね。
世捨て人的なイメージはあっても、犬っていうのは、ねぇ。

で、大澤氏は、「貧しい姿で放浪していたイエスたちも、キュニコス派みたいに見えるよね?」という話を展開しています。

一見、似ているけれども、ベクトルが違います。

説明すると長くなっちゃうので簡単にまとめると・・・

キュニコス派は、偶発的な個々の人間を、普遍的で永続的な真理の域に無理やり近づけようとしているのに対し、イエス・キリストにおいては、神を一介の偶発的な個人へ下降させる力が働いているのです。

古代篇はこれで読み終わりましたので、次回、簡単にまとめてみたいと思います。


『<世界史>の哲学 古代篇』を読みながら 7 ものすごい特殊だから普遍化した

ちょっとずつ読み進めた『<世界史>の哲学 古代篇』(大澤真幸 講談社)、読み終えました。

本書の最初の問いに立ち戻ると、

資本主義的な普遍性を生み出した特殊性とは何か?

ということでした。

普遍的な訴求力を持つものは、同時に特殊性を持っている。
一見、普遍性と特殊性は矛盾しているようなのですが、古代ギリシアの芸術や『源氏物語』が普遍的に魅力を持っているのは、そこに特殊性もあるからです。

資本主義の起源はキリスト教文化にあるとして、キリスト教にまつわる謎を解こうとしてきたのでした。

最も大きなミステリーは、イエスの殺害です。

なぜ、殺されなければならなかったのか ?

キリスト教が普遍化したのは、まさにこの「イエスの殺害」によってです。

イエスという人間が死んで、復活したことで神となりました(神が一時期人間の姿で現前してたことになった)。

イエスは相対的に知性も高く優れた人間ですが、凡庸な人間でもあります。人間は人間なんです。
ぶっちゃけ、誰と入れ替わってもいいということです。偶発的・偶有的というのか。

ソクラテスとは大きく違うところです。

キリスト教の信仰には、「(たまたまイエスとして)神が受肉した」という事実(?)を前提として受け入れることが必要です。

イエスの言葉は、言葉自体が素晴らしいから信じるので はなくて、「神が受肉した」から信じるのです。

人間=神という、ものすごい二重性をキリスト教は持っています。

という話を、さまざまな角度から見てきました。


世界宗教の中でキリスト教だけが、こんな特殊性を持っているのです。

この特殊性が、普遍的な求心力となっている・・・ということでいいのかな?

ま、当然、一言で言えるようなものでないことはわかっていますが。
無理やり、このようにまとめておきます。

次の「中世篇」や、大澤氏のその他の著作でさらに解明していくっていうことで。





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