メリークリスマス。

クリスマスは、もともとキリスト教のお祭りだ。イエスの降誕を祝う日だそうだ。

そこで、ちょっと気になっていることを書いてみたい。

最近疑問に思っている一つは、「キリスト教文化における、瞑想にあたるものは何か?」というものだ。


瞑想をやっていると、私のように宗教に縁遠い人でも、仏教的な世界を感じる。

煩悩がこの世の苦しみを生んでいるから、それをなくそう、超越しようとする一つの実践が瞑想だ。

ゴータマ・シッダールタは瞑想によって覚りを得た。ブッダになった。

覚りを得た状態がどんなものかは言葉では説明できないらしいけれど、人間のゴータマ・シッダールタが覚ったわけだから、人間誰しもに開かれている世界である。

少し前に聞いた、『ゆかいな仏教』(サンガ出版)出版記念講演の橋爪大三郎先生の言葉を借りれば、「人間は不完全だが、仏教は『自分の力で』完全になることができると考えている。仏教にはGodはいない」

そう。

神の力、他者の力を必要としないのが仏教である。

それに対して、キリスト教(一神教)は、同じく橋爪先生の言葉を借りれば、「人間は不完全で、自分の力では完全になることができない。Godの力で完全にしてもらう」。

ということは、キリスト教的世界では、自分で瞑想をしていても仕方ない。「救い」にはならない。

それなら、どうやって心の平安を得るのかというと、「祈り(あるいは懺悔)」なのではないか。

瞑想と違って、徹底的に「言語」である。言葉を使って、対話をするのだ。絶対的な神がいるから、神に対して話しかけることで心の平安を得るのではないだろうか。

と、私の少ない知識で考えた。

勉強不足で、こういったことを書いている本にはまだ出会っていない。

どうだろう。

「瞑想と祈り」。調べてみたいテーマだ。





ゆかいな仏教 (サンガ新書)
橋爪大三郎
サンガ
2013-10-28