先日、公園でカイの手を引きながら散歩をしていると、通りがかった年配の女性に話しかけられました。
まあ。
かわいいわねぇ。
1歳くらい?
はい、1歳2か月です。
そうなの。なんてかわいいのかしら。
と、ここまではよくある会話なのですが。
そのおばあちゃんは目を細め、こう言いました。
まあ。
かわいいわねぇ。
1歳くらい?
はい、1歳2か月です。
そうなの。なんてかわいいのかしら。
と、ここまではよくある会話なのですが。
そのおばあちゃんは目を細め、こう言いました。
神様みたいね。
私は衝撃を受け、息子の手を握りしゃがんだ体勢のままおばあちゃんを見上げました。
おばあちゃんは穏やかな微笑みをたたえ、冬の陽の光を浴びて周りに白いオーラのようなものを輝かせ、そのまま静かに去って行きました。
神様。
うちのわんぱく坊主を神様。
金子みすゞの詩に、こんなのがありました。

(写真AC)
特定の宗教を持たず、ピンチのとき、あるいは神社等を通りがかったときには「神様仏様」とお願いごとをし、都合の悪いときには「神様なんていないのだと」言ったりしているごく一般的な日本人の(?)私ですが、
ちっちゃな蜂の中に神様がいるというのは、素直にああ、そうなのだなあと思うのです。
蜂だけではなくて、ありとあらゆる生き物の中に、神様がいる。
それは、純粋さを持ったものの中に見える。
わが子をつかまえて「神様みたい」と言ったりはしませんが、でもでも、ときどき本当に神様みたいに見えるときがあります。
計算なく、惜しみなく、曇りのない目で世界を見つめているとき、私を見つめているとき、なんだかとてつもない大きな愛を持っているような、すべてを知っているような、そんなふうに感じてドキっとすることがあるのです。
世界と隔絶するのが怖くてちょいちょいSNSを覗いている母(私)より、はるかに世界とつながっているような。
で、私はそういった「純粋さの中に神様を見る」ことで、自分の中の純粋さを少し取り戻している気がします。
自分の中にも本当は神様がいるに違いないのだけど、純粋さを失っていく中で、すっかり見えなくなってしまいました。
すると、ちっちゃな蜂の中に神様を見ることもできなくなってくるのです。
私なんかより純粋さを失わずに持っていて、世界に対して開いている人は、もっともっといろいろなものの中に神様を見るのだろうなぁと思います。
そんなことを思わせてくれたあのおばあちゃん。
あのおばあちゃんの中に、神様はいたと思ったのでした。
私は衝撃を受け、息子の手を握りしゃがんだ体勢のままおばあちゃんを見上げました。
おばあちゃんは穏やかな微笑みをたたえ、冬の陽の光を浴びて周りに白いオーラのようなものを輝かせ、そのまま静かに去って行きました。
神様。
うちのわんぱく坊主を神様。
金子みすゞの詩に、こんなのがありました。
蜂と神様
蜂は お花の中に
お花は お庭の中に
お庭は 土塀の中に
土塀は 町の中に
町は 日本の中に
日本は 世界の中に
世界は 神様の中に
さうして さうして 神様は
小ちやな 蜂の中に。

(写真AC)
特定の宗教を持たず、ピンチのとき、あるいは神社等を通りがかったときには「神様仏様」とお願いごとをし、都合の悪いときには「神様なんていないのだと」言ったりしているごく一般的な日本人の(?)私ですが、
ちっちゃな蜂の中に神様がいるというのは、素直にああ、そうなのだなあと思うのです。
蜂だけではなくて、ありとあらゆる生き物の中に、神様がいる。
それは、純粋さを持ったものの中に見える。
わが子をつかまえて「神様みたい」と言ったりはしませんが、でもでも、ときどき本当に神様みたいに見えるときがあります。
計算なく、惜しみなく、曇りのない目で世界を見つめているとき、私を見つめているとき、なんだかとてつもない大きな愛を持っているような、すべてを知っているような、そんなふうに感じてドキっとすることがあるのです。
世界と隔絶するのが怖くてちょいちょいSNSを覗いている母(私)より、はるかに世界とつながっているような。
で、私はそういった「純粋さの中に神様を見る」ことで、自分の中の純粋さを少し取り戻している気がします。
自分の中にも本当は神様がいるに違いないのだけど、純粋さを失っていく中で、すっかり見えなくなってしまいました。
すると、ちっちゃな蜂の中に神様を見ることもできなくなってくるのです。
私なんかより純粋さを失わずに持っていて、世界に対して開いている人は、もっともっといろいろなものの中に神様を見るのだろうなぁと思います。
そんなことを思わせてくれたあのおばあちゃん。
あのおばあちゃんの中に、神様はいたと思ったのでした。